• 開祖植芝盛平翁に依えれば、「合気道とは、天授の真理にして、武産の合気の妙用である」と説かれている。
    武産合気を除けば合気道は成立せずとほかならない、となれば、合気道を修行する者にとって 「武産合気」は最大の関心事でなければない筈である。
  • 開祖は又、武産合気について次の如く述べておられるである。
    『わが神典による武産とは、 絶倫の日本の武である。しかれば、 神変自在、神通千変万化のわざを生み出すのである』 と我々は此処に至り、千変万化の技を生み出す其の方法に注目することにより、初めて合気道の奥行きの深さを垣間見るのである。
  • 一口で申せば、 変化技は相手と調和をとる時に生まれてくる
    然し、「技は、一分一厘くるっても、技には、ならんぞよ」と開祖は厳しい戒めを残している。
    それ故に、この厳しい戒めを守り、基本を守り、相手と調和し、千変万化する時こそ、正しく武産合気と称することができるのではなかろうか、其処には、いい加減な技の入り込む隙は無い筈である。
  • 「人を導くには、先ず自分が動きなさい」 という教えがある、これは技の始まりに際し、相手の側面に回り込むこみとを指している。
    然し、それだけではなく武産合気を実践する時の心である、と考えるべきであろう。
    武産合気における此の言葉は、 完璧な技を行い得る只ひとつの方法である。
  • 完全な入身であったり完全な四方投げでの体捌きであったり、此の言葉の原理は、非常に発展的にわざの中で生きてくるのである。
    だから、この言葉を忘れて合気道の稽古はしない、万一忘れた場合、技は不完全になり、千変万化する体術も、無限の剣理の展開もあり得ないとおもうからである。
  • 武産合気は、神変自在、神通千変万化の技を生み出す、それは相手を導き、調和するところに実現するのである。
    調和を破る心、調和をとることの出来ない、いい加減な技の中には表現し得るものではない、返し技においても、体術の変化の妙である、相手の力がどのように作用し、それをどの方向に返しているか、 細心の注意を払う必要がある。
  • 変化は理論的な分類とは、無関係に、例えば、相手が上からおさえてくれば、下に降りて返し、下から押し上げられれば舞い上がって上で返す、右から押されれば左に流して返し、左から押されれば右に流して返す、前から押されれば後ろに流し、後から押されれば前に返す、或いは、何れの場合も同一方向に返す。
  • このような単純な動きも、複雑に組み合わせり、或る時は右回り螺旋を描き、或る時は左回りに螺旋をえがくのである、そうして、其の螺旋も中心に向かう場合もあれば、外に向かう場合もある。
    つまり変化は、左右、上下、前後の三つの次元の組み合わせにより、無限に展開するのである。
  • 更に三角法による安定した体裁きや、体を開いて丸くおさえる場合など、「△や○、□」を頭において稽古するのである。
  • 稽古方法については、 固・柔・流(気) の三つの方法を伝えられている。
  • さて、無限に生み出される武産の武技は、それ等を総合すると、一つの球体を形成する。調和の心とも称すべき丸い球である。
  • この点を認識して稽古すれば、一層円滑になり、思いも掛けぬ技が湧き出てくるようになるのである、 その時の喜びを合気道修行者と互いに分かち合えることを期待します。